(3)東京高裁での審理と和解勧告

 一審判決に対し、原告らは即刻東京高等裁判所第17民事部(新村正人・裁判長)に控訴した。控訴審では、原告ら中国人強制連行労働者と使用者である鹿島建設との間に、東京地裁判決の言う「指揮監督の下に労務に服すべき明らかな契約関係、又は少なくともそれに準ずる直接の契約関係を観念し得る法律関係」があったか否かが最大の焦点となった。具体的には、中国人が日本に強制連行された当時の法的・政治的・行政的・軍事的状況の解明、また「華北労工協会」の役割と実態などの詳査が原告側弁護団に課せられることになったのである。「控訴理由書」では、法律審理のみで判決を下すことは可能であるとする「原審裁判所の抱いた予断」、民法724条後段を除斥期間と解した原審の解釈の誤り、安全配慮義務の解釈の誤り、「労工」供出契約について、7・5共同発表と企業責任が詳細に論じられている10)

 原告側は、第1審完全敗訴のなかで、事実審理の実現に向け奮闘した。とりわけ強制連行・強制労働の歴史的・法的・政治的解明に大きな努力が払われた。「労工」供出契約との関連で注目されるのは、1999年2月2日付で東京高裁に提出された田中宏教授の「意見書」、および同年4月16日付で提出された「補充意見書」である。そこでは、国家総動員体制の下、満州国に労務統制と強制連行の原型があったこと、日本国内の労働力補充のために、華北における労務の一元的統制機関として、1941年7月8日「華北労工協会」が設立されたこと、中国人は「華北労工協会」と企業との「契約」に基づいて連行されたことが論証されている11)。この田中教授の「意見書」により、中国人強制連行・強制労働は、「労工」供出契約を媒介とする「直接の契約関係を観念し得る法律関係」であることが立証されることになった。

 そうした中、東京高裁は、1999年7月16日の第1回進行協議日冒頭において、和解による解決を提案した。鹿島建設側は抵抗したが、同年9月10日の第3回進行協議日に正式にこの和解提案を受け入れ、和解協議に入ることとなった。2000年4月21日には「和解勧告書」が出され(資料3・「和解勧告書」参照)、同年11月29日の和解成立まで、20回にわたる和解協議が行われることになった。和解協議に際しても、原告側弁護団は、全体的解決のために、中国の公的機関であり、戦争被害者の救援にあたってきた中国紅十字会の和解参加を求めて力を尽くした12)

 こうして強制連行・強制労働問題に関する歴史的和解が達成されることになったが、どのような思考に基づき、東京高裁民事17部、とりわけ新村正人・裁判長が和解を提案したのかについては、筆者には知る由もない。しかし、戦後補償に関わる裁判の性質上、ある一定の歴史認識に立つ決意を示したものであることは間違いないであろう。このことは、2000年11月29日に、和解成立を宣言した後に裁判長が朗読した「所感」(資料5参照)に述べられた、つぎの言葉の中に読み取ることができる。

「広く戦争がもたらした被害の回復の問題を含む事案の解決には種々の困難があり、立場の異なる双方当事者の認識や意向がたやすく一致し得るものではないところがあると考えられ、裁判所が公平な第三者としての立場で調整の労をとり一気に解決を目指す必要があると考えたゆえんである。」

「本日ここに、『共同発表』からちょうど一〇年、二〇世紀がその終焉を迎えるに当たり、花岡事件がこれとちょうど軌を一にして和解により解決することはまことに意義あることであり、控訴人らと被控訴人との間の紛争を解決するというに止まらず、日中両国及び両国国民の相互の信頼と発展に寄与するものであると考える。」

 ここでは、戦後補償裁判の解決の困難さと裁判所の果たすべき責任と役割が明瞭に示されているとともに、戦後補償裁判の解決が日中両国間の将来的な信頼と発展に結びつくものであるとの認識が明確に述べられている13)




10)東京高等裁判所第17民事部、平成9年(ネ)第5746号、鹿島花岡中国人強制連行損害賠償請求控訴事件「控訴理由書」(1998年6月22日)。

11)その概要については、田中・前掲註1)「中国人の強制連行と国・企業−労働力の『行政供出』のメカニズム」参照。

12)この間の経緯につき、新美隆「花岡事件和解の経緯と意義」季刊戦争責任第31号(2001年春季号)36−39頁、新美・前掲註2)「花岡事件和解訴訟研究のために」20−22頁、福田・前掲註2)「鹿島建設 強制連行の企業責任認める−一転、歴史的先鞭つけ補償実現」160−61頁参照。

13)東京高裁が和解成立後に出した「所感」に関わり、内田雅敏・弁護士が述べているように、東京高裁の戦後補償問題解決に対する努力は、「この種の戦争戦争補償の問題について消極的である−第一審判決はその典型例であった−ことによって失われつつあった司法に対する信頼を呼び戻すものでもある」といえよう(内田雅敏「『花岡事件』和解成立の意味するもの」世界2001年2月号、32頁)。




(4)和解条項の骨子

 以上のような経緯を経て、2000年11月29日に正式に和解が成立した。概要は以下のとおりである(資料1・「和解条項」参照)。14)

 1)1990年の「共同発表」を再確認する。ただし、鹿島建設は、法的責任を否定し、中国人受難者側(以下、受難者)は、これを「了解」するとした。

 2)鹿島建設は、受難者に対する慰霊の念の表明として、中国紅十字会に5億円を信託する。

 3)中国紅十字会は、信託金を「花岡平和友好基金」として管理し、適正な運営のために、「運営委員会」を設置する。基金は、日中友好の観点にたち、受難者に対する慰霊や追悼、受難者とその遺族の自立、介護や子弟育英などの資金に充てる。

 4)和解は、花岡事件についてすべての懸案の解決を図るものであり、受難者とその遺族が本件のすべての懸案を解決したことを確認し、今後国内はもとより他の国、地域での一切の請求権を放棄する。




14)本件和解条項の内容の詳細な解釈については、新美・前掲註10)「花岡事件和解の経緯と意義」39−42頁、新美・前掲註2)「花岡事件和解訴訟研究のために」35−38頁参照。なお、和解条項の意義についての正しい理解および各条項の解釈にあたっては、和解条項を補完する歴史的文書として、1990年7月5日の「共同発表」、2000年4月21日の東京高裁による「和解勧告書」、同「見解」、2000年11月29日の和解成立直後に出された東京高裁の「所感」、同日に出された新美隆・原告側代表弁護士の「談話メモ」(いずれも資料として掲載)の内容を、充分参考にすべきである。 

内藤光博「戦後補償裁判における花岡事件訴訟和解の意義」専修大学社会科学研究所月報No.459(2001年9月20日)掲載より引用